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【2024/04/20 20:15 】 |
木曽川・合渡川の戦い
木曽川・合渡川の戦い (きそがわ・ごうとがわのたたかい)は、慶長5年(1600年)8月21日から始まった福島正則 ・池田輝政らを中心とする東軍と織田秀信を中心とする西軍の戦いである。
経歴

戦いまでの経緯

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、関東250万石を領する五大老の徳川家康 が次の天下人として台頭する。これに対してあくまで秀吉の後継者・豊臣秀頼 を擁護しようとする五奉行の石田三成 一派が対立し、両者の対立は慶長5年(1600年)に家康が会津征伐 を起こしたことを契機にして頂点に達した。
三成らは家康が会津に赴いて畿内から徳川方の影響力が薄れたのを好機として挙兵し、大坂城を占領し、さらに京都や丹後国、近江国、伊勢国などに存在する徳川方の諸城の攻略に取りかかった。
一方、家康は7月24日に伏見城を守る鳥居元忠 の急使によって石田三成 の挙兵を知るや、小山軍議で諸将を取りまとめて東軍を結成し、本来の征伐すべき相手であった上杉景勝 に対しては結城秀康を抑えに残して西上を開始する。そして8月10日には福島正則 が居城の尾張国清洲城に入り、さらに東軍諸将の多くも8月14日までに清洲城に集結した。
木曽川・合渡川の戦い

8月21日、東軍は福島正則 を大将にした一軍が木曽川の下流にある尾越から、池田輝政を大将にした一軍が上流の河田からそれぞれ渡河を開始する。木曽川を越えたら美濃国であり、当時は西軍に与している美濃岐阜城主・織田秀信の領地であった。秀信は抵抗したが、福島軍は竹ヶ鼻城を落とし、池田軍も織田軍の迎撃を打ち破って岐阜城に進軍する。秀信は岐阜城に立て籠もって抵抗するが、福島・池田の猛攻は凄まじく、さらに池田輝政がかつては岐阜城主だったことから城の地理を知り尽くしていたこともあって、秀信は8月23日に降伏した。
さらに家康は美濃大垣城方面から西軍の援軍が到来するのを阻止するため、黒田長政 藤堂高虎 、田中吉政らを大将にした一軍を大垣城の東に位置する合渡川に進出させた。合渡川には西軍の部隊がいたが、黒田軍の襲来ですぐに破られ、黒田軍らはそのまま合渡川を渡河して大垣城から西北に約4キロのあたりに位置する赤坂を占領し、8月24日には岐阜城を落とした軍勢も集結することになった。
影響・その後

木曽川・合渡川の戦い が行なわれていた頃、西軍は毛利秀元・吉川広家らが伊勢攻略戦、小野木公郷らが丹後攻略戦、大谷吉継 らが越前・加賀攻略戦などに赴いていたため、石田三成 らは織田秀信に対して援軍を送ることが出来なかった。また、東軍に西上が予想以上に早かったこと、西軍がそもそも伏見城の戦い で8月1日まで攻略に手間取ったことなど、西軍にとっては様々な誤算が影響して、この戦いは局地戦ながら西軍の敗北に終わったのである。
その後、東軍は家康本隊の到着を待って、9月15日に西軍との決戦である関ヶ原の戦い で激突することになる。
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.
[木曽川・合渡川の戦い ]の改定履歴
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【2012/02/14 04:48 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
十河氏
十河氏(そごうし)は日本の氏族。
讃岐国の土豪であり、讃岐に下った神櫛王の流れを汲むと称する植田氏の一族である。神内氏、三谷氏と共に植田党の一角を形成した。
南北朝時代以降、四国においては守護大名細川氏による在地国人の被官化が進行し、十河氏ら植田党もその傘下となる。
戦国時代には細川氏の内乱(永正の錯乱)に乗じて三好氏と結び、讃岐守護代であった香西氏などと抗争しつつ勢力を拡大。後に甲斐源氏の流れを汲む阿波小笠原氏一族の三好長慶の弟(十河一存)が十河氏を継ぐことにより三好一門となる。一存は勇猛で「鬼十河」の異名を取ったが、落馬により1561年に急死。一存の兄三好義賢の子(十河存保)がその跡を継ぐ。
存保は讃岐を支配していたが、義賢の嫡男である三好長治が反乱により自刃し、阿波が混乱すると、三好氏の家臣の要請により阿波も支配するようになる。存保は上洛を果たした織田信長に降り勢力を保持しようとしたが、四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けるようになる。従属先の信長が1582年に本能寺の変で急死、さらに中富川の戦いなどで元親に連敗した存保は阿波勝瑞城や讃岐十河城を失う。秀吉の援軍を引田の戦いで破った長宗我部氏の勢いはとどまることを知らず、窮地に追い込まれた存保だが、柴田勝家を破り四国征伐に本格的に取り組みはじめた羽柴秀吉の助力を得て抗戦。秀吉は元親を降伏させる。秀吉と共に戦った存保は所領を安堵された。
その後秀吉の九州征伐軍に参加。1586年に豊後国の戸次川で島津家久と交戦したが(戸次川の戦い)、軍目付の仙石秀久の失策により存保は討ち死に。遺児千松丸も生駒親正の保護下において1589年に謎の急死を遂げた。
最後に残ったもう一人の遺児存英も大坂夏の陣にて戦死し、十河氏は滅亡した。
四国の覇権を巡って争った十河氏と長宗我部氏は、秀吉に臣従した後の戸次川の戦いで十河存保と長宗我部元親の長男信親が戦死、30年ほど後の大坂夏の陣でも存保の子存英と元親の四男盛親が秀吉の子秀頼に殉じるという繰り返された歴史に皮肉が感じられる。
外部リンク

武家家伝_十河氏
*そこう そこう *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国合戦一覧

?■二俣城の戦い
三方ヶ原の戦い
木崎原の戦い
槇島城の戦い
一乗谷城の戦い
越前一向一揆
高天神城の戦い
長篠の戦い
四万十川の戦い
七尾城の戦い
第一次木津川口の戦い
第二次木津川口の戦い
上月城の戦い
三木合戦
御館の乱
武田征伐
本能寺の変
山崎の戦い
中富川の戦い
賤ヶ岳の戦い
小牧・長久手の戦い
紀州征伐
四国征伐
上田合戦
河原山城の戦い
戸次川の戦い
肥後国人一揆
大崎合戦
摺上原の戦い
小田原の役
文禄・慶長の役
閑山島海戦
晋州城攻防戦
碧蹄館の戦い
庄内の乱
関ヶ原の戦い
会津征伐
伏見城の戦い
木曽川・合渡川の戦い
慶長出羽合戦
大津城の戦い
松川の戦い
大坂の役
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
西園寺氏
西園寺氏(さいおんじし)は伊予西部を領有した戦国大名。本姓は藤原氏。家系は閑院流 西園寺家の支流にあたる。
伊予西園寺氏

伊予の西園寺氏は、室町時代から戦国時代にかけて伊予国南西部の宇和郡一帯(愛媛県西予市周辺)に勢力を持った武家である。
宇和地方は鎌倉時代中期の西園寺公経のときに西園寺家によってほとんど横領に近い形で所領とされ、自己の荘園とした。鎌倉幕府滅亡から南北朝分立に至る動乱と西園寺本家断絶の混乱の中で、西園寺家庶流の西園寺公良が宇和郡に入り、在地の土豪を支配下に組み入れて領国支配を開始する。
戦国時代に入ると、伊予東部の河野氏や、土佐の一条氏、九州豊後の大友氏の侵攻に遭って次第に衰退していった。天正12年(1584年)、長宗我部元親の侵攻に遭って当主西園寺公広は長宗我部氏に降る。そして天正13年(1585年)、長宗我部氏が豊臣秀吉の四国侵攻に遭って本国土佐を除く3国を没収されると今度は秀吉に降伏することになるが、宇和には新領主として戸田勝隆に封じられてしまい、天正15年(1587年)に公広が戸田勝隆に殺害されるに及んで伊予西園寺氏は滅亡した。
ちなみに伊予西園寺氏に仕えていた土居清良が書いたとされる軍記物『清良記』(巻七「親民鑑月集」は日本最古の農書とされている)には同氏に関する記述があるが、信憑性には乏しいと言われている。
現在も西予市の隣、八幡浜市日土町の一部地域に西園寺氏一族の末裔と見られる家々がある。
関連項目

伊予国
西園寺家
西園寺十五将
土佐一条氏
姉小路氏
北畠氏
浪岡氏
*さいおんしし さいおんしし さいおんしし さいおんしし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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戦国合戦一覧

?■戦国合戦
長享・延徳の乱
毛利次郎の乱
如意ケ嶽の戦い
船岡山合戦
有田中井手の戦い
桂川原の戦い
田手畷の戦い
享禄・天文の乱
中嶋の戦い
大物崩れ
花倉の乱
国府台合戦
安城合戦
吉田郡山城の戦い
月山富田城の戦い
天文の乱
小豆坂の戦い
河越城の戦い
小田井原の戦い
舎利寺の戦い
江口の戦い
川中島の戦い
黒井城の戦い
防長経略
長良川の戦い
稲生の戦い
桶狭間の戦い
野良田の戦い
教興寺の戦い
湯所口の戦い
長島一向一揆
東大寺大仏殿の戦い
信貴山城の戦い
観音寺城の戦い
八流の戦い
金ヶ崎の戦い
姉川の戦い
野田城・福島城の戦い
白井河原の戦い
比叡山焼き討ち
西上作戦
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
浦上氏
浦上氏(うらがみし 「うらかみ」と言う説もある)は、武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされる。紀長谷雄または紀貫之の子孫であり、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が苗字の地である。武家としては赤松氏とともに発展し、後に下克上を行い戦国大名としては、播磨・備前・美作に勢力を伸張した。
なお江戸時代に、堀田家は浦上氏と同族とする仮冒系図を作成したが、これは室町時代の名門・浦上氏の威光を借りたものと類推され、堀田家とは別系統と考えるべきである。
発展

鎌倉時代末期、播磨から赤松則村(円心)が史上に現れた際には、浦上氏もその活躍の一翼を担い、鎌倉幕府の倒幕にも参加している。ちなみに浦上氏の名が書物にあらわれるのは、『大徳寺文書』にみられる為景なる人物が最初である。大徳寺の開山は大燈国師で知られる宗峰妙超で、浦上掃部入道覚性(一国ともいう)の子と伝えられている。宗峰は同郷の赤松則村の帰依を受け、正和4年(1315年)、洛北紫野に小堂を建立した。これが大徳寺の起源となり、正中2年(1325年)、花園天皇は大徳寺を祈願所とする院宣を発している。後に後醍醐天皇から播磨国浦上庄を寄進された宗峰は、浦上庄の半分を一族に分配することを申し出て許され、為景が天皇からその旨の綸旨を賜ったとのことである。
南北朝時代には、赤松氏は後醍醐天皇を中心とした建武の新政権を見限り、早くから足利尊氏に従った。尊氏が幕府を開くと、則村は播磨守護に、長子範資は摂津守護となった。おそらくこの頃に、守護赤松氏とその被官浦上氏と言う形での主従関係が成立したのではないかと思われる。 貞治元年(1362年)、山名時氏が備前に侵攻した際には、備前守護松田信重が浦上行景と共に防戦したことが『太平記』に記されている。やがて則祐が備前守護に補任されると、行景は守護代に任じられた。このことが、播磨を本領としていた浦上氏が隣国の備前へ勢力を伸ばす足掛りともなり、以後浦上氏は赤松氏の有力被官として活躍することになる。行景の後は、助景が守護代を継ぎ、赤松氏の被官としてその支配に尽力していたようである。赤松義則が幕府の侍所頭人に就任すると、助景は所司代に取り立てられている。しかし応永15年(1408年)、助景は伊勢国山田において誅殺されている。(この年には、第3代将軍足利義満が死去しており、政変に巻き込まれた可能性があると思われる。)その後の所司代には浦上性貞が就いている。
赤松氏は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱を起こし没落するが、この時には浦上宗安、則永らがともに幕府方となった山名氏の軍勢と戦っている。その後小寺豊職をはじめとする赤松氏の遺臣たちは、満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて主家再興を企画し、ついに長禄元年(1457年)、政則は家督相続を許された。応仁の乱では浦上則宗が赤松政則とともに東軍の細川勝元に属し、赤松軍を率いる主将として活躍した。応仁の乱後、赤松氏が播磨・美作・備前の三国の守護となると、則宗は備前守護代となっている。文明3年(1471年)政則が侍所の所司に任ぜられると、則宗が所司代となり実務を司った。文明13年(1481年)、山城守護に補任された政則は則宗を守護代とするなど、ここに浦上氏の権勢は大きく伸びることになる。
しかし乱後の影響が赤松氏の領国にも及ぶこととなり、文明15年(1483年)11月、備前御津郡金川城主の松田元成が、山名氏と結んで備前福岡を攻めた。赤松政則は但馬の山名氏を攻撃する戦術をとったが、但馬守護山名政豊に大敗し播磨は乱戦模様となった。この結果政則の権威は失墜し、政則は和泉へ逃れている。浦上則宗は小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実らの諸将と図って、五人の連署で赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がすよう画策も行っている。しかし足利義政の仲介により、政則と浦上氏らは和解し、文明17年3月から山名氏との播磨を巡る攻防に入った。坂本城を拠点とする西播磨の山名氏と、長享2年(1488年)7月に勝利するまで五年間に渡り対峙した。やがて播磨・美作・備前を回復した政則は、第10代将軍足利義材の軍奉行となるなど活躍し、明応2年(1496年)従三位に叙せられている。
赤松政則の死後、その養子である赤松義村は、浦上氏などに支持される形で、播磨・備前・美作の守護に就いたが、義村は自立の機会を伺っていた。浦上則宗の子(養子・孫ともいう)守護代浦上村宗は、永正15年(1518年)義村と対立し居城の三石城に退去した。しかし義村は守護の権威をもって村宗の討伐を企図し城を囲んだ。村宗は主家からの攻撃に狼狽したが、重臣の宇喜多能家らの支えにより攻城戦を乗り切った。しかし翌年の永正16年(1519年)には義村は再度兵を起こし、浦上氏に対抗する有力家臣である小寺城主小寺則職を主将として美作の浦上方の諸城を攻撃させた。赤松勢は浦上勢を圧倒し義村の目的は達成されるかに思えたが、やがて則職の軍は打ち破られた。逆に村宗は播磨に攻め入り義村を捕らえ、窮した義村を隠居させた。その後義村を幽閉し殺害した(1521年)。これにより名目的にも実質的にも、播磨・備前・美作の支配権を得て戦国大名への道を歩み始めた。
だが村宗が享禄4年(1531年)6月、天王寺の戦い(大物崩れ)で討死する。嫡子である浦上政宗は未だ幼少の身であったが浦上国秀など一族の有力な家臣の補佐もあり、無事に元服を果たす。その後、尼子詮久(後の晴久)によって一時期所領を失うも機を見て復帰し播磨、備前の2国を回復。ここに至る戦いの中で発言力を強めていった政宗は赤松氏筆頭家老にまで登り詰める。 しかし天文20年(1551年)、再び兵を率いて備前侵攻に際して政宗と弟の浦上宗景は真っ向から対立。政宗は播磨国室津に、宗景は備前国天神山に根拠を置いて、以後10年にわたり対立し、浦上氏は大きく分裂することになった。政宗は播磨守護代として実効支配を行い赤松氏を傀儡としていたが、永禄7年(1564年)に赤松政秀に襲撃され滅んだ。一方弟の宗景は、備前・美作一帯に一大勢力を築いて、また織田信長と誼を通じるなどして、再び家勢を盛り返した。宗景は、信長には領国の安堵を受けたが、台頭してきた重臣の宇喜多直家と不和となり、毛利氏と結んだ直家は浦上久松丸を擁立して天正3年(1575年)に宗景を打ち破り播磨国に追放した。ここに戦国大名としての浦上氏は実質的には滅亡した。久松丸はまもなく直家に毒殺され、また宗景は黒田長政を頼り筑前国で没したとされる。
主な浦上一族

浦上則宗
浦上則永 則宗兄
浦上宗助 則永長男
浦上村宗 宗助長男
浦上宗景 村宗次男
浦上成宗
浦上政宗 村宗長男
浦上清宗
浦上誠宗
浦上久松丸
浦上国秀 則国一族?
主要家臣

島村盛実
中山信正
宇喜多能家
宇喜多興家
宇喜多直家
系図

(斜体の人物は養子)        為景         ┃        行景         ┃         助景         ? (関連不詳)         性貞         ┃         掃部                (不詳)         ┣━━━━━━┓           ┣━━┳━━━┓                         則永     則宗          基景 豊前守 基久         ┣━━━┓  ┣━━┳━━┓     ┃      ┃         宗助  則久 則景 則国 祐宗    基政     宗茂            ┣━━━┓         村宗  宗久        ┏┻━━━━┓       政宗    宗景    ┏━━━━━┫     ┣━━━┓ 清宗    誠宗    宗辰  成宗  ┃               ┃ 直宗              宗利
書物

「備前 浦上氏の研究」(1986年)新人物往来社 浦上元/著
備前に残る浦上成宗の子孫による研究書。したがって、宇喜多氏に関する記述は冷たく手厳しいものがある。
外部リンク

浦上宏の書斎
うらかみし うらかみし * うらかみし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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戦国武将一覧

?■山名祐豊
浦上政宗
浦上宗景
宇喜多秀家
宇喜多忠家
松田元輝
南条宗勝
尼子経久
尼子晴久
尼子義久
尼子勝久
穂井田元清
三村家親
三村元親
大内義長
陶晴賢
河野通直
来島通康
長宗我部盛親
吉良親貞
香宗我部親泰
本山茂宗
安芸国虎
一条兼定
立花道雪
立花宗茂
高橋紹運
秋月文種
城井長房
少弐冬尚
龍造寺隆信
蒲池鑑盛
鍋島直茂
松浦隆信
有馬晴純
大村純忠
阿蘇惟将
甲斐親直
相良義陽
相良頼房
深水長智
隈部親永
伊東義祐
肝付兼続
島津義弘
島津歳久
島津忠恒
島津家久
上井覚兼
新納忠元
土岐頼元
土岐頼芸
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
三村氏
三村氏(みむらし)は備中を支配した戦国大名。同流・信濃三村氏と区別するため、俗に備中三村氏ともいう。家紋は剣方喰・丸に三柏など。
発祥期〜備中西遷

もともとは常陸国筑波郡三村郷の開発領主もしくはその縁者と思われ、鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった。
吾妻鏡では、『親』を通し字とする数名の三村氏が既に確認できる。
伝承によれば、小笠原長経三男の長時(「長持」とする小笠原系図も一部にあるが、写本時の誤記であろう)が常陸国筑波郡三村郷に移り、その子・親時の頃より三村氏を称したという(とはいえ、三村氏を称した時期については諸説ある)。
三村郷には小笠原長時の叔父にあたる小田五郎清家がいたとされ、その関係で長時は三村郷に縁が出来たのではないかとも言われる。
常陸国筑波郡三村郷を苗字発祥の地とする小笠原長時の子孫は、承久の乱後に信濃国筑摩郡洗馬郷(せばごう、せまごう)の地頭(いわゆる新補地頭)になったとされる(信濃三村氏)。この係累は後庁氏など分流を派生しつつ、以後小笠原氏家臣・武田氏家臣として、信濃を中心に一定の活躍をみた。
その信濃三村氏の一流が鎌倉後期までに備中星田郷の地頭(新補地頭)となって当地に移住したことにより、備中三村氏の歴史が始まる。
いわゆる西遷御家人である。
鎌倉後期〜戦国期

鎌倉後期以降長らく、備中三村氏は星田郷や成羽を支配する備中の一豪族に過ぎなかったが(国人化していた)、16世紀前半に三村宗親が分流である石蟹氏などと対立しつつも徐々に勢力を伸ばす。
息子三村家親の代には毛利氏の後ろ盾を得て備中をほぼ統一し、備前や美作においても部分的に勢力下・支配下におさめ、戦国大名として名を轟かせる。
その後も家親は備前や美作へのさらなる勢力拡大を図るが、1566年には鉄砲に精通した阿波出身の遠藤兄弟を利用した宇喜多直家によって暗殺されてしまう。
家親の死後、宇喜多氏との兼ね合いもあって、庄氏一部の叛乱を許すなど一時三村氏は衰退するも、勢力を盛り返した。しかし、三村氏不倶戴天の敵である宇喜多直家と毛利氏が(吉川元春の強固な反対を押し退けて)安国寺恵瓊・小早川隆景の仲立ちによって同盟関係を結んだことに端を発する1575年の備中兵乱において、毛利氏に攻めに攻められて(宇喜多氏は備中兵乱最後の山場である備前常山城攻めなどで、辛うじて僅かに出兵したのみ)、家親の子・三村元親は自害。戦国大名としての三村氏は滅亡した。
元親に近い血筋の者は,毛利氏方についた三村親成などの係累を除き,因幡・阿波・讃岐等各地に落ち延びていった。二松学舎大学創立者で皇室への出入りのあった漢学者三島中洲(毅)を初めとして,三村氏子孫を称する家系は備中地域などに少なくない。
江戸期

三村親成の系統は、水野勝成との縁故(二度に亘り寄食させ、養女(実は三村家親の末娘)を正室に娶らせた)から備後福山藩家老職を務めた。他に岡山藩に仕官した系統などもある。
上田實親の遺児三村勝親・三村吉親のうち、前者の系統は讃岐高松藩士となり、後者の系統は幕末の備中松山藩士三島中洲家となった。
この他にも江戸期において藩士として禄を食んでいた三村氏子孫の系統は数家あったようである。
備中・信濃両三村氏の関係

備中三村氏・信濃三村氏の関係については不詳とする文献もある。特に備中三村氏が初期に本拠地としていた星田郷などが「三村荘」と呼ばれる荘園内に属したと考えられることから、備中三村氏の苗字発祥の地(本貫地)を「三村荘」と比定する説も流布している。
しかし、両三村氏はともに(1)家紋(剣方喰・丸に三柏など)・(2)通字『親』(ちか)を長きに亘って共通としており、(3)備中三村氏の根拠地である備中星田郷周辺には「洗馬」に通ずる「洗場」の地名がある(地名遷移)。また(4)信濃三村氏子孫においても、苗字発祥の地を常陸国筑波郡三村郷と伝え、小笠原氏分流を称する家がある。(5)備中三村氏が西遷御家人子孫であると室町期の国人間でも認知されていた。
これらのことから、両三村氏は同流・同族と見て間違いないであろう。三村家親なども神社をわざわざ信濃より勧請しており、信濃に深い縁故を感じていたふしがある。
なお、備中三村氏が古くから小笠原氏分流を名乗る一方,現に信濃小笠原氏臣下にあった信濃三村氏は源頼親子孫などとも称している。
系譜

源義清  ┏┻━━━━━━━━━━━━┓ 加賀美遠光        武田清光           ┃   小笠原長清    ┣━━━━━━┳━━━━━━┓ 小笠原長経  伴野時長  大井朝光  ┣━━━━━━┓       小笠原長忠 小笠原(三村)長時(住常陸国筑波郡三村郷)      ┃  三村親時         ┃  親屯(信濃国筑摩郡洗馬郷)         ┃  親實(備中国小田郡星田郷)         ┃       能實         ┃           親経         ┃            親基          ┃   親隆 ┃ 時親 ┃   宗親    ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓       家親                            親成          親頼                                   ┏━━━┳━━┻┳━━━┳━━━┳━━━┓          (備後水野福山藩家老家祖) 庄元資  元親  元範 上田實親 元高  於柵(水野勝成正室)
備中三村氏一族

三村能實
三村宗親
三村家親
三村元親
勝法師丸
三村親成
庄元祐(元資)
三村元範
上田實親
上野隆徳
鶴姫(上野隆徳室)
三村親宣
三村親良
三村親安
三村親澄
石川久智
石川久式
三村政親
於柵(備後福山藩初代水野勝成正室)
備中三村氏を扱った主な書籍

新釈 備中兵乱記
備中兵乱 常山合戦
鬼哭の城(きこくのしろ)
瀬戸の軍狼
女甲冑録
おんなたちの戦国史 武将を支えた21人
備前児島と常山城 戦国両雄の狭間で
その他の三村氏

南北朝時代に新田義貞の叔父新田俊信が出羽に逃れた後の子が、三村頼信という。ただし、北朝に敗れた後身を隠すために東海林俊久を名乗っており、三村氏は一度消滅している。その後彼の次男の家系が南北朝合一後、源氏一門として三村氏を名乗った。
*みむら *
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戦国武将一覧

?■朝倉宗滴
板垣信方
甘利虎泰
飯富虎昌
山県昌景
馬場信春
高坂昌信
内藤昌豊
真田幸隆
真田信之
初鹿野忠次
小原広勝
高遠頼継
諏訪頼重
小笠原長時
太原雪斎
酒井忠次
榊原康政
石川数正
井伊直政
大久保忠佐
渡辺守綱
前田利益
豊臣秀長
豊臣秀次
蜂須賀正勝
蜂須賀家政
竹中重治
加藤嘉明
稲葉良通
姉小路頼綱
小西行長
一色義道
稲富祐秀
足利義晴
島清興
松倉重信
森好之
細川晴元
三好義賢
安宅冬康
畠山高政
鈴木重秀
波多野晴通
赤井直正
籾井教業
赤松晴政
別所就治
小寺政職
黒田長政
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河野氏(こうのし / かわのし)
河野氏(こうのし / かわのし)は、守護大名、戦国大名となった伊予国(愛媛県)における有力豪族で、越智氏の流れを汲むという。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書「予章記」はその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
他に2系統が存在する。
三好義長を遠祖とする、芥川長明の子、芥川季範が河野氏を称する。
桓武平氏 良文流 河越氏の流れを汲む河越重家が子孫が河野氏を称する。
概要

河野氏は河野郷(現在の松山市北条付近)を出自とする。当初は国衙の役人として活動していたと考えられているが、源平合戦で源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけた。その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり内乱を繰り返すこととなった。その結果勢力を削ぐこととなり、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。河野宗家は、代々湯築城を拠点としていたが、河野水軍の本拠地は松山市三津、港山の一帯であった。この地理的な距離が宗家と分家(水軍衆)との亀裂を生んでいたとも思われる。なお河野氏の菩提寺は旧北条市の善応寺である。湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城を本丸として支城に恵良山城、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有していた。
一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない。伊予の水軍は大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。
平安・鎌倉時代

平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・"うしろついじ"として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。
南北朝・室町時代

南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼春の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通尭は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。
室町時代には度重なる細川氏の侵攻や予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされた。河野通久の時代に、河野通之の子通元の予州家との間に家督相続争いが起こった。この争いはその後も続き、管領職が代わる事に幕府の対応が変わるなど情勢が混迷を極めた。本家河野教通と予州家の河野通春の争いは瀬戸内を挟んだ細川氏、大内氏を巻き込んだものとなったが、応仁の乱のさなか、本家の教通が伊予守護職を確保し、通春没後に予州家は没落した。
戦国時代・安土桃山時代

戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力部将来島通康を巻き込む形で子の河野晴通と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮は叶わなかった。
国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や1581年の来島通総の離反など苦難は続いた。1585年、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして1587年、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。
河野氏遺臣の再興のための戦い

1600年には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ二千余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で夜襲を受け、完全に撃破されてしまった。これを「刈屋口の戦い」または「竹原崩れ」という。この後も荏原城などで残党が篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、完全に駆逐されていった。
河野氏主要名簿

系図

┃     通信     ┣━━━┓     通久 別府通広     ┃   ┃     通継  一遍     ┃     通有     ┃     通盛     ┃     通朝     ┃     通尭     ┣━━━┓      通義  通之     ┃   ┃     通久  通元 ┏━━━┫   ┃ 通生  教通  通春 ┃   ┃   ┃ 明生  通宣  通篤 ┃   ┃   ┃ 通吉  通直  通存 ┃   ‖   ┣━━━┓ 通直  通宣  晴通  通宣     ‖      通直
晴通、通宣(左京大夫)については通直(弾正正弼)の実子と言う説有
通直(伊予守)のについては来島氏からの養子とする説もある。
庶家

河野氏主要家臣団(戦国期)

河野諸氏末裔

秋山好古
秋山真之
正岡子規
馬越恭平
河野淳吾(Jリーガー)
河野直人(Jリーガー)
大石尚子(衆議院議員)
参考文献

川岡 勉・西尾和美『伊予河野氏と中世瀬戸内世界 戦国時代の西国守護』(愛媛新聞社、2004年) ISBN 4860870255
川岡 勉『中世の地域権力と西国社会』(清文堂、2006年) ISBN 479240603X
川岡 勉『河野氏の歴史と道後湯築城』(青葉図書、平成4年)ISBN 4-900024-07-4
こうのし こうのし * こうのし こうのし
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戦国武将一覧

?■石川高信
小野寺輝道
戸沢盛安
葛西晴信
大崎義隆
斯波詮高
伊達晴宗
伊達輝宗
伊達成実
片倉景綱
田村清顕
大宝寺義氏
相馬盛胤
岩城親隆
佐藤好信
二階堂盛義
金上盛備
佐竹義宣
江戸忠通
小田氏治
宇都宮国綱
宇都宮広綱
結城晴朝
水谷正村
大関高増
大田原綱清
千葉胤富
里見義堯
里見義頼
上泉信綱
由良成繁
北条早雲
北条氏綱
北条氏政
北条幻庵
北条氏秀
北条綱成
石巻康保
粟屋元隆
宇佐美定満
斎藤朝信
柿崎景家
直江景綱
直江兼続
新発田重家
椎名長常
畠山義綱
遊佐続光
長連龍
温井景隆
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少弐氏
少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家の秀郷の子孫と称する武藤氏の一族。
経歴

出自

少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになろう。
平安時代末期から鎌倉時代

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この源頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。
鎌倉時代の文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)に元寇が起こり、資能は子の少弐経資や少弐景資らとともに戦い、孫の少弐資時は弘安の役の時壱岐で討死している。戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部9州における最大の守護大名にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。
鎌倉時代後期

少弐資能の死後、経資と景資との間に家督をめぐっての争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、景資は泰盛の子の安達盛宗とともに、頼綱側についた経資と戦い敗死する(岩門合戦)。その後、鎮西探題が設置されて北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。
鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が建武3年(1336年)に京都から駆逐され、九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破った。
南北朝時代

南北朝時代には、頼尚は九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突する。足利家の内紛から観応の擾乱が発生すると、頼尚は九州へ逃れた足利直義の養子である足利直冬に娘を娶わせて接近する。多々良浜の戦いで敗北した菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉じて勢力を拡大しており、少弐氏は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦いで征西府・菊池軍に敗れて大宰府を奪われる。
室町時代

九州における南朝方の勢いが盛んになると頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。しかし、北朝方についた少弐冬資が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動した。南朝の勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになり、少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあったが、その後はたびたび敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。
戦国時代

戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡する。後に政資の子である少弐資元が第16代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かすことは困難であり、拠点を肥前に移さざるをえなくなる。当時の肥前は九州千葉氏が支配していたが、その内紛に乗じて同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。だが、今度は家臣の龍造寺家兼の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって次第に衰退してゆく。少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時、滅亡した。
滅亡

資元の子で第17代当主を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は永禄2年(1559年)、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。
少弐冬尚の弟・少弐政興は永禄6年(1563年)から馬場鑑周など旧臣の支援のもと、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、龍造寺隆信と戦う。
しかし、永禄7年(1564年)に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも馬場鑑周は降伏する。その後、政興は大友氏の支援を受けながらなおも隆信と戦うが、元亀3年(1572年)に隆信によって肥前を追われ、少弐氏再興の野望は潰えた。
少弐氏一族

武藤資頼【初代】
少弐資能【2代】
少弐経資【3代】
少弐景資
少弐盛経【4代】
少弐貞経【5代】
少弐頼尚【6代】
少弐直資【7代】
少弐冬資【8代】
少弐頼澄【9代】
少弐貞頼【10代】
少弐満貞【11代】
少弐資嗣【12代】
少弐嘉頼【13代】
少弐教頼【14代】
少弐政資【15代】
少弐高経
少弐資元【16代】
少弐冬尚【17代】
少弐政興(基本的に政興は当主として認められてはいない)
系譜

凡例 太線は実子。細線は養子。
(武藤氏、少弐氏)      頼平      │      資頼      ┃     資能      ┣━━━┓      経資  景資      ┣━━━┓      盛経  資時      ┣━━━┓      貞経  資法      ┣━━━┓      頼尚  頼賢      ┣━━━┳━━━┓      頼澄  冬資  直資      ┃      貞頼      ┣━━━┓      満貞  頼房      ┣━━━┳━━━┓      教頼  嘉頼  資嗣      ┣━━━┓      政資  胤資      ┣━━━┓      資元  高経      ┣━━━┳━━━┳━━━┓      冬尚  胤頼  政興  元盛
庶家

鍋島氏
馬場氏
筑紫氏
横岳氏
朝日氏
少弐氏方の人物

少弐支族

朝日氏
朝日資法
横岳氏
横岳頼房
横岳資貞
横岳資誠
馬場氏
馬場頼周
馬場政員
馬場鑑周
筑紫氏(支族ではないとする系図もある)
筑紫教門
筑紫満門
その他

肥前小田氏
小田資光
小田政光
小田鎮光
小田賢光
神代氏
神代勝利
神代長良
神代家良
江上氏
江上元種
江上武種
多久氏
多久宗時
多久宗利
宗氏
宗貞盛
宗盛国
宗貞国
その他
高木鑑房
執行種兼
関連氏族

渋川氏
大内氏
九州千葉氏
龍造寺氏
外部リンク

武家家伝_少弐氏
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?■石川高信
小野寺輝道
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伊達晴宗
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田村清顕
大宝寺義氏
相馬盛胤
岩城親隆
佐藤好信
二階堂盛義
金上盛備
佐竹義宣
江戸忠通
小田氏治
宇都宮国綱
宇都宮広綱
結城晴朝
水谷正村
大関高増
大田原綱清
千葉胤富
里見義堯
里見義頼
上泉信綱
由良成繁
北条早雲
北条氏綱
北条氏政
北条幻庵
北条氏秀
北条綱成
石巻康保
粟屋元隆
宇佐美定満
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柿崎景家
直江景綱
直江兼続
新発田重家
椎名長常
畠山義綱
遊佐続光
長連龍
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宗像氏
宗像氏(むなかたし)とは、筑前国の古族である。
出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔鳴尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。宗像氏は、正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。914年までは、胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。戦国時代に宗像氏貞をもって大宮司家が断絶した。また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落を意味する。
歴史

古代は、海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。
仲哀天皇の頃、神功皇后が三韓征伐の直前に来宗した際に、宗像氏が宗像大神に神助を賜う。
雄略天皇が新羅に親征しようとしたが、宗像三女神のお告げにより中止する。
645年、大化の改新によって、国郡制が敷かれ、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任し、神郡の行政を司った。また、遠賀郡などの郡司も兼ねる。
654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。
天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。
690年(持統4年)、高市皇子が太政大臣になる。
767年、宗像大領で朝臣の宗像深津(宗形深津)の夫人に竹生王という皇族が降家した。
788年、宗像氏の中から潔清廉貞での祭事者を選んで神主とし、任期を6年と定めた。
800年、宗像大領が宗像神主を兼任することが禁止された。
914年、宇多天皇の御子源清氏に宗像の姓を賜り、宗像の地に配された。この頃から、宗像氏が大宰府の高官に任命されるようになった。
979年(天元2年)、太政官の命により、大宮司職が設けられる。
宗像氏は、自分の荘園を守る為に、京都の八条院と領主・本家の関係になる。
平安時代末期、大宰帥に宗像氏の名が見られる。
1185年、宗像氏実が、博多の貿易商・王氏の娘と、宗像氏忠は北宋商人・張氏の娘と2代に渡って中国人と縁組する。
1281年、弘安の役が起こる。宗像長氏は元(蒙古)の侵略から防戦し、鎌倉幕府から肥前国神埼郡神埼荘を賜る。
1330年、倭寇を指揮する。
1334年、宗像氏が帆柱山城を攻撃する。
1335年、北条時直の遺児が越後左近将監と謀り、佐加利山城で蜂起する。宗像氏範が鎮圧のために吉田頼景らと佐加利山城を攻撃する。
1336年、宗像氏範が入宗した足利尊氏を助け、多々良浜の戦いなどで奮戦する。その結果、楠橋荘(北九州市八幡西区)を与えられる。
1344年、壱岐の石田郷の地頭を、後に壱岐の守護を兼任した。
1375年、宗像氏経が、足利義満の命で菊池氏の領地である肥後国を攻めて、八代城を包囲する。その留守に宗像を攻めた少弐忠資を降伏させた。
関連項目

許斐氏
宗像大宮司の一覧
宗像大社神主の一覧
! むなかたし
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戦国武将一覧

?■蒲生氏郷
前田利長
池田恒興
堀秀政
大友宗麟
鈴木重意
島津義久
十河存保
仙石秀久
真田昌幸
鈴木重則
猪俣邦憲
細川忠興
古田織部
浅野長政
前田玄以
長束正家
増田長盛
福島正則
加藤清正
脇坂安治
平野長泰
糟屋武則
片桐且元
石田三成
島津貴久
島津忠良
本多正信
大久保長安
奥平貞能
本多忠勝
服部半蔵
板部岡江雪斎
大久保忠世
鳥居元忠
真田幸村
大谷吉継
後藤基次
毛利勝永
大野治長
明石全登
豊臣秀頼
筒井順慶
筒井順昭
最上義光
最上義守
長宗我部国親
長宗我部信親
九鬼嘉隆
村上武吉
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望月氏
望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。
義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。
室町時代

鎌倉滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城を喪うが、間もなく同城を回復し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝に与して戦い、後醍醐天皇の皇子で「信濃宮」と呼ばれた宗良親王を30年に渡って庇護した伊那郡の豪族香坂高宗も、望月氏の一族とされる。
戦国時代

戦国期に入り、望月氏も望月城(現:佐久市 旧:北佐久郡望月町)を拠点に活動をするが、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退化し、天文12年(1543年)9月に当主・望月昌頼は武田に攻められ落ち延びた。一族の望月信雅は実弟の望月新六と共に武田に抵抗するが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆の仲介を得て武田氏に服従し、望月氏を継ぐことになる(信雅の名乗りは、臣従後に晴信の一字「信」を与えられたことによる)。更に望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟・典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏を武田一門に組み込んでいった。
信雅引退(印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし、その信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後、しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎が当主に復帰する異例の状態となる。
天目山の戦いで武田家が織田家に敗れた際、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、望月権兵衛など難を免れた者達は、現在の静岡市北西部から山梨県南部町や身延町、早川町あたりの県境の山間に身を隠し移り住んだ。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。
武田氏滅亡後、徳川家康配下の依田信蕃に従い徳川氏の傘下に入ったとされる。
甲賀望月氏(近江国)

望月氏が支配した「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行うことになっていた。その繋がりから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり)が恩賞として近江国甲賀郡を賜っている。
戦国時代にはその末裔・望月出雲守が望月城(現:甲賀市 旧:甲賀郡甲南町)を築城するなどの記録が残され、信濃望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展していった。また一族の女忍者望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、武田信玄の手下として活躍するなど、交流は長きにわたり続いたと考えられる。
甲賀望月氏は、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。
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高梨氏
高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。
平安末期から源平合戦

高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、源家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。しかし系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦の際は井上一族では無く北安曇の仁科氏らと行動を共にしていたので、当時の慣習から見て別の一族であった可能性がある。しかし、高梨氏は仁科氏と同じく中原兼遠の婿になっていたので、この婚姻関係によって執るべき軍事行動が変化(男系親族井上氏に従わず、外戚中原氏へ加担)したということも考えられる。
高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城資茂率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していた事が伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。
南北朝時代

続く南北朝時代には埴科郡に割拠する有力豪族村上氏と共に北朝方に属し、正平6年/観応2年(1351年)6月に高梨経頼は小笠原為経・小笠原光宗らと直義党の諏訪直頼の代官祢津宗貞と野辺原(須坂市野辺)で戦い、8月には富部河原、善光寺、米子城(須坂市米子)で戦った。また守護の斯波義種に反抗して元中4年/嘉慶元年(1387年)善光寺に村上頼国、小笠原清順、長沼太郎らと挙兵し5月に平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めて漆田原(長野市中御所)で戦い、8月には守護代の二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とし、続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。北信濃の南朝方香坂心覚(根津一族と思われる香坂氏6代目)との抗争にも高梨五郎・高梨時綱らの名前が出てくる。
室町時代中期

更に応永7年(1400年)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。応永10年](1403年)に細川慈忠が守護代として入国した際には村上氏や大井氏、井上氏らが従わず段の原や生仁城で戦ったものの敗走し、翌年12月には高梨左馬助朝秀とも合戦となった。このように南北朝時代に善光寺平北部地域一帯から越後の一部にまで及ぶ勢力拡大に成功した様子が伺われる。室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている(「上高井歴史」より)。
地理的に近い越後にも所領があったことから越後の勢力の影響を高梨氏も受けるようになる。寛正4年(1463年)12月に、信濃守護職を得た越後守護上杉房定の一族上杉右馬頭が高井郡高橋(中野市西条)に攻め入った際には、高梨政高がこれを討取ってしまっている。高梨氏は村上氏と共に、北信濃の一大勢力として認識されるようになる。
戦国時代以降

高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘(政盛と能景は同年代であるため、政高の娘である可能性が高い)を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。
永正4年(1507年)、為景が越後守護上杉房能を殺害する際に支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景を一旦は放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正10年(1513年)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。しかしその年のうちに政盛が死去、越後では為景と新守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していく事となる。更に善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、以後高梨氏は弱体化していった。
それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555 - 1558)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。
武田氏の滅亡後、北信濃を任された森長可が本能寺の変により撤退、代わって上杉景勝が進出するのに伴って高梨氏は旧領に復帰することができた。その後上杉家は、会津・米沢藩と転封を重ねるが、政頼の子・高梨頼親もこれに従っている。彼の子孫は米沢藩士として江戸時代に代々続いた。
この系統の他に、尾張や丹後または相模国などに移住した高梨氏もあったと言う。現在の高梨家の末裔として認知されている一族は尾張高梨家出身である。
歴代の人物

高梨盛光
高梨忠光
高梨高信
高梨忠直
高梨朝定
高梨政高
高梨政盛
高梨澄頼
高梨清秀
高梨政頼
高梨頼治
高梨頼親
高梨秀政
高梨頼清
関連項目

高梨氏館
於フ子
関山慧玄
たかなし たかなしし たかなしし *
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